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第四編 早稲田大学開校

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第八章 日露戦争中の出来事

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一 小泉八雲を迎える

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 日露戦争は、七博士の主戦論と、安部・浮田の同志社組の非戦論とを以て、東京帝国大学組と早稲田大学の色をはっきり染め分けた。またこの時の国民の勃興的気運は、士・農・エ・商の下積みの素町人の知識と術とを学問に昇華して講ずる大学商科を、早稲田に開かしめた。しかし、もう二、三付加して語るべきアイテムがある。

 第一は、ラフカディオ・ヘルン(小泉八雲)を講師に迎えて誇り、また喜びとしたが、最初の学期の講義を終り、次の学期の講義を始めたばかりで、全学を挙げての落胆と悲嘆のうちにこれを喪った。仮に早稲田大学百年の歴史を描かれたる竜に比すれば、それに眼睛を点じた観のあるのは、この文豪を招聘して、最後の安らぎの場を与えたことである。

 肩をそびやかして、官学何する者ぞ!と、対抗の気を示した城北学生も、垂涎して措かぬのは、東京帝国大学のラフカディオ・ヘルンの講義であった。十九世紀と二十世紀の境目に、逝く世紀を送り、来たる世紀を迎える記念として、大きくはパリで開かれた万国博覧会があり、小さくは当時の批評雑誌として第一流の『ブックマン』が「十九世紀の十五大文豪」と題する特集号を出した。ゲーテ、シラー、ハイネ、ユゴー、デュマ、バルザック、ディケンズ、サッカレー、トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、テニソン、ブラウニングなどと並べて、ラフカディオ・ヘルンがその中に取り上げられたのだ。日本では今更のように彼の卓越さが見直された。彼が教壇に上って、その銀鈴をふるが如き声で講義を始めると、忽ちにして詩情、満堂にしみ通ると言われた。詩人蒲原有明の如きは、ロゼッティを知るに、わざわざ知人の東大生の筆記講義を借覧して写したものである。もとより書籍舶来の乏しかった頃のこととはいえ、学外にまでそれほどの魅力を感ぜしめる講義は、めったにあるものではない。

 これを東京帝国大学が放逐したのは、一にして足らぬ理由がある。英文学を講義して英語学を講義しない、星や虫の声を讃美するのが大学の学問と何の関係があるかというのが、主たる理由だと伝わった。要するに官僚と野人との融合の難しさである。どうせ永続きせず、最後は分裂に終るべき運命にあったのだと説く者もある。その他、待遇や東西の習慣の違いからくる双方の誤解も、少からず原因になっている。

 東京帝国大学で、小泉先生が罷めさせられるらしいとの噂が拡がりだしたのは、明治三十五年の秋頃からだったらしい。しかしヘルンはそんなことは素知らぬ顔で、いつもの通り平然と講義を続けていたが、遂に学生達が騒ぎだした。その頃の英文科一年生、小山内薫は「留任」という小品でその場のことを描いている。某月某日、ヘルンはシェイクスピアについて講義して、例の如くさっさと教室を出て行った。その後で、三年級の特待生が壇上に登って、小泉先生が去られるという心外な噂があるので、これを遺憾と思う者は今夕みんな某教会に集まってくれと言う。小山内も行ってみたら「嬉しいではないか、英文科殆んど全体」が参加して、一人一人立って感想を述べた。

 ある学生は言った。

僕は斯う思ふです。日本に帝国大学ある所以は、かれ小泉八雲を養ふあるを以てぢやらうと思ふです。若しかれ小泉なくんば世界に於ける日本帝国大学の存在を奈何です。かれ八雲あらずんば帝国大学は何の誇る所なし矣です。かれラフカヂオ・ヘルンなくんば帝国大学は即ち無一物です。僕は愛校者の一人であるから、死を以てしてもかれ小泉を留めむと欲するものです。

(『帝国文学』明治三十七年十一月発行第一〇巻第一一号 四四頁)

これが代表的な意見で、学生は学長井上哲次郎の許へも、当人のラフカディオ・ヘルンの許へも、委員を奔らせ交渉した。

 これほど全英文科生がこぞって解雇に反対し、引留に熱心なのには、大学当局はびっくりした。そこで考えを翻して留任の再交渉をしたが、今度は難し屋のヘルンの方で臍を曲げてこれを拒否し、明治三十六年三月を以て辞職した。休みが終って、学校に出て、学生は皆がっかりした。留任が決まりそうだという噂が流れたので、一縷の希望をつないでいたのが断ち切られた。

 その後ラフカディオ・ヘルンは、畢生の大作『神国日本』(Japan: an Attempt at Interpretation)の著作に心血を振り絞った。これ彼の日本観の総括であり、結論であり、そして前の全著作の要約でもある。一読すると、執筆しながら、この著作と心中して倒れるのではないかとの危惧に時々襲われているのがよく分って、読者の背筋を寒くさせる。またその『怪談』(Kwaidan)もまとめた。

 その時、夫人節子の遠縁でもあって、前々から小泉家の世話を見ている、法学博士梅謙次郎が早稲田に仲媒したと田部隆次が記している(『小泉八雲』二三三頁)のは、そちらから見てのことで、早稲田では、ヘルンを迎えてはの議が先ず文科学生の間から起り、当局を促し、高田の命を受けて内ヶ崎作三郎が使者としてヘルンを訪れたと伝えられている。市島は『避寒小録』巻二に「帝国大学では一週十二時間で一年四千出して居つたのを、早稲田では六時間一年二千円で交渉中だ」と三十七年一月に記しているが、結局、毎週四時間その教壇に立つことが実現した。

 ヘルンはその頃の早稲田の未整備な野人的空気に、アット・ホームな安易さを感じた。東大では人を嫌って、決して教員室には入らず、放課時間には池の端のみを散歩するので有名であったヘルンが、早稲田の教員室の片隅で、鉈豆ギセルで煙草を喫みながら、時々は話の仲間に加わるというほどの変化を見せた。

 ヘルンの伝記およびその資料としては、エリザベス・ビスランド(Elizabeth Bisland)のThe Life and Letters of Lafcadio Hearn,2vols., 1906と、The Japanese Letters of Lafcadio Hearn, 1910が最も早く出て、しかも内容豊富で、オーソリタティヴなものとして信用できる。彼女は、ヘルンが若い時シンシナティで新聞記者をしていた頃の心友・同僚で、一説には恋人でもあったといい、生前から死後までヘルン顕彰に最も尽した女性だから、その仕事に誠実と温情がしみ透っている。その中に有名な節子夫人の思い出を紹介して、「彼は日本の羽織袴を着た教授が早稲田に多いのを喜んだ」とあり、また高田学長の招待には、他人の家を訪ねたことのないヘルンが珍しく承諾して出かけたところ、高田夫人が生半可な英語を用いず、純粋の日本語で挨拶をしたことを大喜びした有名な話が記載されていて(The Life and Letters of Lafcadio Hearn, vol. I, pp. 149-150)、その後ヘルンの読者が早稲田に好意を持つのに、有力なキー・ポイントとなった。

 ヘルンは浦島が好きで、子供と一緒に「澄の江の浦島は」を歌っていたが、日露戦争とともに旅順閉塞隊が有名になり、「広瀬中佐は死したるか」(巌谷小波原作)という軍歌を覚えて、子供に唱和した。その頃、ヘルンは芝居に興味を深め、それについて坪内逍遙の教示を乞うた手紙が二通あるうち、後の一通(一九〇四年(明治三十七)六月九日付。これら二通の手紙はビスランドの両著には収録されていない)の全文はこうである。

坪内博士、甚だ御親切な、そして教訓的な御手紙に対して千万御礼を申上げます。全く「井の中の蛙」のやうな私のためにそれ程の労を取つて下さつた事に対して申しわけがありません。

近松に関する貴い御助言を有難く思ひます。その点に関して私はどんな事ができるか考へて見ます。しかし余り成功しさうにありません。その困難は古い脚本にある女の性格に存するのではありません――英・仏の現代の脚本はその事実の証拠を与へてゐます。その困難は心理学的に数千年も西洋の読者と離れて居る社会の情緒的生活を感じさせる事です。御承知の通り、現代の欧洲人は多くの古いギリシヤ劇を本当に理解する事ができません(「アルケステイス」は恐らく例外です)。何人も「イディパス」を理解する事はできません。ギリシヤ人の宗教的生活は私共から余りにかけ離れてゐます。私共は何故彼等は或事をしたか、或は或不意の場合にどんな風に感じたか、それが想像できません。

勿論色々よくお話を承はるのが最も好都合です。試験が終つて、もう少しひまになれば、お話を承はる事を有難く楽しく思ひます。あつい日でもここではあなたを安楽にする事ができるかと考へます。庭には蒼い樹木があり、鳥と蟬がゐます。それからくりかへし御親切なる御手紙に対して深く深く御礼を申上げます。 小泉八雲

(『小泉八雲全集』第一二巻 一一三―一一四頁)

 ヘルンが家庭に客を招待するなどということは、まことに異例であったらしい。少くとも前後七年勤めた東京帝国大学の教授の中には、一人として、こんな親身に打ちとけた手紙をもらっている人はない。ただし、逍遥がこれに応じたかどうか。死後、彼の公にした追憶談は、行き届いた作品評ばかりで、その消息を漏らしておらぬ。早稲田の英文科を卒業(大正六年)したヘルンの長男小泉一雄が、伝記を作れば序を乞いに、記念碑を作る時にはその相談に、一々逍遙を訪ねて教えを乞うに師父の礼を執っているのは、亡父のもったこの隔てのない関係からであろう。

 明治三十七年夏も例年の如く焼津で過ごし、子供達の成長を楽しみにしていた。新涼、九月の新学期が始まるとともに、自分では新しく起りだした胸の痛みに不安を覚えながらも、義務観念の強い人だから講義は欠かさず、英文学史はチョーサーを講義したのが、遂に最終講となった。

 九月二十六日、機嫌よく子供達と晩餐をしたためた後、書斎にしりぞいてから、急に気分が悪くなり、狭心症の発作が起ったのだから防ぎようはない。享年五十四。牛込の、彼の名文で世界に知られた自証院円融寺(俗称瘤寺)で葬式を行う。この日、早稲田の学生総代として横山有策が弔詞を読み、相馬御風や野尻抱影が残って、会葬者の見送りに立っていると、少し後れて野口米次郎が焼香に来た。ロンドンで小詩集『東海より』を出版して詩人と認められた彼は、久し振りに海外から帰郷した最上の目的がラフカディオ・ヘルンに会見することであったのに、時所、合期せず、たった一日違いで、柩の前に合掌礼拝することになったのだ。会葬者はみんな日本の喪服の中に、ヨネ・ノグチが一人洋服で、式台を降りて靴をはく時の白い手袋が、くっきりと、好奇心で目を見張る早稲田の文科学生みんなの目に鮮やかな印象を残した。墓は雑司ヶ谷の墓地にあり、戒名は正覚院浄華八雲居士。

 その年の十一月になって『帝国文学』は「小泉八雲紀念号」を発行した。その中の、前にも引用した小山内薫の「留任」という小品にこうある。

諸新聞は先生を惜んで呉れた。学校の人たちもこれを惜んだ。先生の去るに任せた学校でさへこれを惜むんだもの、これを歓び迎へた早稲田の学校の悲嘆はどれ程であらう! (五〇―五一頁)

 これで見ると、ラフカディオ・ヘルンは完全に早稲田の先生となり切らず、魂魄はいつまでも赤門の上をさまようているようでもある。しかし、その伝記(田部隆次著)を刊行したのも早稲田大学出版部であり、大正天皇即位式の時、従四位を贈ったのは大隈内閣の時で、東大出でありながら早稲田の教授となり切っていた内ヶ崎作三郎をはじめ、主として早稲田出代議士の提案であった。たとえ教授期間は短くても、この帰化文豪に対する取扱いは、早稲田の方が東大よりも情理と敬意を尽している。

二 賀表・募金・慰問図書蒐集

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 ラフカディオ・ヘルンの死亡した九月には、旅順戦の失敗と遼陽の占領とによって、日露戦争はいよいよ中盤戦に入った。安部・浮田両教授の如き、非戦論・反戦的態度を表明する者は別格として、早稲田の一般の教授・学生の間に生じた雰囲気はどうだったであろうか。それは思いの外に平静沈着を極めていたとは、当時学生だった者の等しく語るところである。例えば毎日新聞の重役岡崎鴻吉は、日露戦争三十年記念に、戦争参加の遺老の諸将軍を動員して、長期に亘る思い出座談会を掲げる時、「僕はその頃早稲田の政治科生〔三十八年卒〕だったが、戦争の進行にはみんな冷淡で、早稲田田圃で戦争ごっこをしても、戦勝の報には、子供達と一緒に喜ぶ気は絶えてしなかった」と社内で漏らしている。

 これは早稲田ばかりでなく、一般世間もそうだったのではないか。坊間に広く歌われた流行歌を見るだけで、日清戦争と日露戦争とで、どんなに差異があったか、よく分る。

日本勝た、日本勝た、支那負けた。えらい奴ぢや。台湾取た、えらい奴ぢや、償金取た、負なよ、えらい奴ぢや。

これは関西からはやって来たので、内村鑑三が、嘲笑気味を以て日清戦争を代表する文学として挙げているところである(『警世雑著』一四二頁)。また、軍楽隊の「雪の進軍」が戦地でできた歌で、別な意味で代表と見られるであろう。「ままよ大胆一服やれば、頼み少なや煙草が二本」とか「焼かぬ干物に半煮飯で、……すいというのは梅干一つ」とか、陣中の窮状まさにそうであったろうが、どこか呑気で太平楽な気分である。日露戦争の代表歌の随一は真下飛泉の「戦友」で、「物なと言へと願うたに、空しく冷えて魂は、故郷へ帰つたポケットに、時計計りがコチコチと、動いて居るも情なや」は絶唱と言われた。ひたひたと哀感が漂うている。同じ作者の「戦死」は、ロシア兵を討ち殺した日本の兵卒がその屍を前において述懐するので、「我は名誉の手柄した、君は名誉の戦死した」と言い、

さは言へ思ひめぐらせば

同じ地球に生れ来て

同じ月見る君と我

と言って怨敵感を超越し、世界同胞思想が表明せられている。第二次大戦の「鬼畜米英」などという標語とは違って一脈のヒューマニズムの鼓動がある。小学生でさえそういう唱歌を歌っている時、進歩学風を表明する早稲田が戦勝に狂歓乱舞することなど、どうしてあり得ようか。

 勿論、軍国多事で、全国民が日夜窮乏に耐え、恤兵事業に忙しき時、自分達のみが拱手傍観して、頰かむりで、この国難をくぐり脱けようとすることは許されない。そこで、一般並みの銃後活動はしたので、開戦と同時に逸速く、三十七年二月九日、「事務員規程中戦時招集ニ関スル規定」「学生ニシテ召募ニ応ズルモノノ為ノ規定」(『早稲田大学沿革略』第二)の二規定を設けた。教職員からは、有賀長雄、池田良栄、宇都宮鼎、桑木厳翼、志賀重昂、司馬亨太郎、滝精一、田中遜、野沢武之助、横地清次郎その他が応召し、学生も多数戦時召集を受けているが、その正確な総数は明らかでない。恤兵金募集には逸速く着手し、戦争開始後一ヵ月余の三月十七日には既に二百十円の金が集まった。今から見れば些少の金だが、政府は小学生のために貯金台紙という紙を作り、それに子供の飴代や筆墨代を節した五厘、一銭の金で、切手を貼らせ、十銭に達すると郵便局に差し出させるという、それこそみみっちい手段まで採って金集めに血眼になっていた矢先だから、これは大金である。当時百円は一身代と言われたものだった。鳩山校長は、三月十七日宮内省に出頭し、半ばずつを陸海軍に分って献納した(『早稲田学報』明治三十七年三月発行第九九号「早稲田記事」八〇五頁)。

 遼陽戦は世紀の大戦と言われ、日露戦争前半の天王山として、世界の注目するところであったが、寡兵を以て大勝を博したので、鳩山校長は、我が全学苑を代表し、大山満州軍総司令官、ならびにそれに参加した奥、黒木、野津の各司令官に、祝辞を呈した。明治三十八年一月一日は、難攻不落として聞えた東洋のジブラルタル、旅順口が遂に陥落したので、乃木軍司令官に賀詞を送呈し、一月十五日祝勝会を催した。まだ冬期休みが終って幾日も経っていないので、郷土に帰った学生も多かった筈だが、早稲田中学校、実業学校生もともども、五千有余人が集まった。

 恤兵金はその後も絶えず募集する外、傷病兵が書物を熱望していると聞いて「慰問寄贈書籍募集趣旨書」を作成して、慶応義塾と共同で運動を開始した。その発起人中、学苑学生は左の如くである。

(第一回)丹羽幸夫 江崎秀雄 真木五郎 浅川万寿雄 斎藤朋之丞 蜂須賀武彦

(第二回)大山郁夫 小手川清 丹羽幸夫 白松孝次郎 田辺郁太郎 寺尾元彦

高橋正一 中山好次 蜂須賀武彦 江崎秀雄 山田末一郎 太原孝

永山定富 山本恒太郎 山田勝郎

(同誌明治三十八年二月発行第一一三号 四九頁、同年三月発行第一一五号 五五頁)

大山郁夫、白松(後の杉森)孝次郎の名が見えるのは、特に注目を要する。この同じ頃、永井柳太郎や白柳秀湖などが平民社に無料奉仕して、社会主義のために働いていたのと対比して、まことに興味がある。早慶協力し、天下に大呼して立てば、一糸響きを発して万管これに和するが如く、官学私学取り混ぜ、且つ全国の隅々にまで亘って小学校・女子学校までこれに応じ、第二回募集に際しては実に八十校の多きを数えた。当時、学校の数も少く、従って、どこやらに連帯感が通じていたからで、今ではこういうことは望めまい。

三 坪内孤景の戦死

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 戦争とあれば、勿論、「必要悪」として多くの惨害が生ぜずにはすまず、殊に痛ましいのは犠牲となった戦死者である。校友の戦死者は十名を超した模様であるが、大石橋戦死者中には陸軍少尉坪内鋭雄が発見される。彼は坪内逍遙の甥で、まさに台頭した最も有望な新進文士の一人であったから、世間はその戦死の報に一種のショックを受け、文壇は痛惜して哀悼した。

 坪内鋭雄は明治三十二年文学部出の首席。その卒業論文は「宗教に於ける罪悪観念の発展(原始宗教より自律的宗教道徳に至る)」で、今日も一読に値する。卒業後県立中学教師として宮城県に赴任しているが、当時中学は未だ少数しか設立されていない時で、早稲田の卒業生がその教師に迎えられるなどということは、絶えてなかった。坪内逍遙の身内ということも若干左右したろうが、秀才であったには違いない。遺稿集『宗教と文学』に収められたジョルジュ・ジャック・モーリス・ペリシエの『フランス文学思潮』の抄訳のほか、シャーパー・ノールソンの『英文学は如何にして研究すべきか』を換骨奪胎して、引例を日本文学に換えた『文学研究法』の一著に、応用の才の豊かなのを見る。外に、『通俗世界文学』という叢書に『イブセン物語』の執筆を約束しているのも、着眼が凡でない。孤景と号し、青年文士として注目された一人であった。二十七歳で死んだのに、以上の著書を残しているのは、逍遙の後楯に依るとはいえ、本人に力量がなくてはできることでない。

 こういう特殊才能のある人士は、軍でも配慮して特別地位につかせ、例えば学苑にも講師として出講した哲学者桑木厳翼などは、同じく出征しても、司令部にいて戦報などを起草しており、日露戦争に名文の戦報の多かったのはそのためと言われる。しかるに坪内少尉は、そういう特典に浴さず、実兵を指揮して華々しく前線に戦闘を続けた。激戦地として先ず全日本の心胆を寒からしめた南山戦を振出しに、得利寺、蓋平と戦って、身に寸傷を負わなかった。しかるに、これも重要な大激戦として数えらるる大石橋において、遂に壮烈な戦死を遂げるに至った。従軍記者としてその地にいた田山花袋の『第二軍従征日記』には、左のような一節がある。

丁家溝に第五旅団本部を訪問した時のことであるが、旅団副官加納中尉(重之)にいろいろ詳しい戦況を聞いて、さて当日の死傷者将校下士の姓名を問うに及んで、自分は愕然とした。少尉坪内鋭雄……と副官は平気で語つたが、不図坪内孤景君がこの第三師団に居る筈と思つた自分の胸には、すぐ戦死されたかといふ感が烈しく浮んだ。坪内博士の甥に当る人ではありませんかと聞くと、何でもそんなことに聞いて居りますとの話。孤景君には自分は二、三度逢つたばかり、別に深い交情もあるのではないが、氏の友人からその性行の一部をも聞いて居り、その著述の二、三をも繙いて、わが明治の文壇、氏の為すあるの士であるのを知つて居るので、自分は一方ならず胸を撼かしたのである。聞くと君は当夜接戦の第三大隊第九中隊に属し、中隊長森大尉指揮の下に、奮戦突撃、勇しい戦死を遂げられたのであるといふ。 (三四二―三四三頁)

なお『日露戦争実記』第二八篇(明治三十七年九月三日発行)を見ると、花袋はその時の戦闘状況を「大石橋観戦記」に更に詳しく報じ、

〔敵弾雨飛の中を、〕三箇中隊が何うやら斯うやら山に取附くと、第一に突撃したのが横山大尉の第十一、私の隊もこれを見て、後れまいと勇んで突撃しました。山は八十米ばかりの極く低き山で、上が平扁く、一面に玉蜀黍畑が茂つて居ましたが、坪内君の遣られたのは、八分目ばかり上つたところに、何うしてか一ところ綿畑がある、その綿畑の中頃で、敵の銃丸を腹部に受けられて指揮の姿勢のままで、どつと前に倒れられました。兵等が驚いて介抱すると、弾丸は腹部に留つたと見えて、その後五分と経ぬ中に絶命されました。軍医の診察では盲管銃創がその致命傷であつたといふことで、実に惜しい将校をと此上なく残念に思つて居ります。遺骨は其儘兵が麓に運び、翌日勉汗溝西方の高地に火葬しました。 (六〇頁)

と、その時の中隊長の話を直接通信している。

 すぐ功五級の金鵄勲章を授与せられ、中尉に昇叙されたぐらいで、世間常識から言えば、母校の名誉を輝やかしたものなのに、大学はどちらかと言えば、ひっそりとして音なしの構えだった。これは大学の日露戦争に対する姿勢がこうであったのだ。別に安部・浮田の非戦論の影響を受けたわけではないが、日清戦争の時のような狂熱振りは示さなかった。坪内逍遙にとっては実子のように可愛がった親身の甥のことであり、自分が手塩にかけて育てあげた秀才のことであり、殊に実践倫理の研究に没頭している真最中であった。藤村操に対しては長講二時間に亘る「自殺論」を講じ、星亨の横死についても同じく長講二時間の「刺客論」を発表し、時事に敏感に反応した坪内であるから、この時まさに戦死に倫理的意見を開陳して当然と思うが、全く口をつぐみ、学友達が遺稿集を編むに当って、僅かに短文の序を寄せ、世間には多くの戦死者があるのに、これは分に過ぎたことだとのみ言うに止まっている。

 坪内鋭雄の同級の友で、論文を出さなかったために卒業できなかった児玉伝八(花外)は、後年、東洋のバイロンと言わるる詩人となるが、その「白雲」と題する弔詞の中に次の一連がある。

三歳、早稲田の学窓に

詩筆研きし一秀才

剣は残りて人むなし、

花咲き鳥の謡ふとて

いつか聞かんや君が歌。 (『宗教と文学』 三八七頁)

 また樗牛亡き後の、赤門派の文壇を背負って立つ概のあった大町桂月は、「彼に剣の歌あらば、日本のケルネルとなりたらむものを」(『文芸俱楽部』明治三十七年九月発行第一〇巻第一二号一八九頁)と撫然として述べている。

四 野球団渡米の快挙

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 然らば、世界が東亜新帝国の勃興として目を見張った日露戦争に、早稲田はラフカディオ・ヘルンと坪内鋭雄の死を深悼するのみで、この祖国の雄飛に相呼応する宏達の心意気は全くなかったのかと問う者があれば、答えて言おう。そうではない。ある意味で早稲田ほど、この機において国際文化の交流に、今日も鮮やかな足跡を残す功業を立てた者は他にない、と。すなわち、高田が学事報告で指摘した(七一頁)ように、野球団を渡米させ、海外との国際試合の源流を作ったのである。早稲田野球の歴史は各種スポーツの歴史の中に総括して述べるが、このアメリカ遠征のみは、ここに特筆大書してその意味を明らかにしておく必要を覚える。

 早稲田の野球部は、二十世紀になると早々の頃、押川方存(春浪、明三四邦語行政科)などによって興されたが、初めは早稲田中学その他の少年に手もなくひねられて、いたずらに戸塚わらんべの嗤笑を招いていた。しかるに、安部磯雄が正式に体育部長に任命されるに及んで、特に野球の強化に力を入れ、授業がすむと毎日練習に臨んで終るまで見て、無言の激励を与えた。彼は、諸君がどこかの学校と試合して勝ったら、懸賞に西洋料理を御馳走しようと言っていたが、当時の四強豪の一、学習院に一勝したので、神楽坂まで連れていってその約を果した。当時、早稲田界隈にまだ西洋料理店は一軒も見当らず、選手も、青山学院から来た混血児陶山素一以外に、これを口にした者なく、みなその初物のうまさに舌鼓を打った。そのうち、シカゴ大学の元選手メリーフィールドが聘されて神学校教師として東京に来ていると聞き込み、懇請してコーチに来てもらうと、めきめきと目に見えて上達して来たので、安部部長は、今度は、「諸君が、どの強豪もなぎ倒して、日本一になったら、試合にアメリカに連れて行ってあげよう」と約束した。

 その日は意外に早く来た。明治三十七年の春から夏にかけては、一高、学習院、慶応、横浜外人チームを総なめにして、球界の王者となったのである。しかしアメリカ行きの約束は、あまりに話が大きいので、どの選手も実現するものとは思っていなかったが、「しかし、安部先生は耶蘇教信者だ。ひょっとすると、ウソではないかもしれんぞ」と言って、恐る恐る報告してみると、「よろしい。承知した。しかしあいにくと日露戦争が始まったから、政府が許すかどうか分らず、国民の批判がどうあるかも気にかかる。ここは一番、先ず大隈伯に相談してみましょう」と言った。

 当時大隈は政界を離れ、野に虎嘯していたが、不思議とその言説は、出ずるに従って海外に反響を呼ぶこと大きく、大日本帝国政府をも、官僚大御所の伊藤博文をも圧して、早稲田の隻脚伯こそ、世界に向って日本を代表する予言者的言説者だと思われるに至った。その大隈は「それは結構なことだ。もし政府から何とか言ってくれば、吾輩が掛け合おう。費用もいよいよとなれば、こちらで工面する方法があるが、先ず、大学に相談してみるがいい」と大きくうなずいた。

 大学の幹部としては、校長の鳩山和夫の許に高田・天野・坪内などが寄って鳩首凝議しても、みな野球を知らないのだから、相談のしようがない。安部部長を呼ぶと、入手したスポールディング(Albert Goodwill Spalding)の『野球案内』を唯一の拠所として持参して、これで見ると、一試合少くも四、五万人は入る。仮にこれを内輪に一万人と見て、実費を差し引き入場料収入の半分をもらうとしても、帰国の節、優に一万ドルは持って来られる。そうなれば、その金で、大隈邸の裏から江戸川橋まで続く、いわゆる早稲田田圃を買い取り、ダムを作ってボート練習場を作りたいという希望を持っているとさえ言うではないか。平生はったりは些少も言わない人格に信用があり、経済学の教授でもあるので、その儲かる方の話は当てにしないまでも、損はしないという点に安心して、総費用五千五百円の貸与が決まった。

 遠征に備えて、その年は冬の練習に霜柱の立たない伊豆の伊東を選び、渡米に選抜せられた選手の合宿を行い、昼間は練習に励ませるとともに、折さえあれば、あちらの生活様式や日常礼儀を教えるに、細心の注意を払った。殊に西洋人との接触には、その感情が日本人といかに異同あるかを教える一端として、夕食後テニソンの長詩『イーノック・アーデン』を講義して聞かせているのはいかにも安部式で、他の部長や監督だったら思いも及ばぬことである。

 さて、いよいよ期日が迫って、維持員会として五千五百円の金を渡す時、鳩山校長はさすがに野球は知らなくても、アメリカ生活が長い。「君、この金は、見込み通りに行かなくたって、返さなくてもいいんだよ。今や大学の年総予算は二十万円くらいに達している。この程度の金は何でもないんだ」と言った(安部磯雄『青年と理想』二八五―二九二頁)。なお、森村豊明会の森村市左衛門から五百円、ライオン歯磨の小林富次郎から二百円の寄附があったのを、付記しておく。

 この国際的大計画が発表されても、都下の諸新聞に殆ど反響なく、僅かに『報知新聞』が早稲田の御用紙であり且つスポーツ紙でもあったところから、ややハデに記事を取り扱ったに止まった。しかし一たびその電報がアメリカに届くと、反響は盛んだというより熱狂的であった。試合受諾のスタンフォード大学のあるカリフォルニアはもとより、東部のシカゴ、ニューヨークの諸新聞も連日報道し、それとともに日本の諸事情も解説する。ロサンゼルスはまだ地方都市に過ぎず、『サンフランシスコ・エグザミナ』『サンフランシスコ・タイムズ』の掲げる報道・論説の影響が、中部アメリカのシカゴから、ニューヨークの諸大新聞に波及して、折からアメリカは日露戦争で日本贔屓であるところへ、この一投石が千波万波の波紋を描いた。『サンフランシスコ・ヘラルド』は、

日本は太平洋彼岸の蕞爾たる一小国を以て、今や世界の大国露西亜と戦つて居るにも拘らず、国民は皆綽々たる余裕を有せる如し。現に早稲田大学野球部が我がスタンホード大学に競技を申込みしが如き、何たる勇ましき態度ぞ。スタンホード大学たるもの、快然として之れに応ずべき也……

(押川春浪「早稲田大学選手の渡米に就いて」 『中学世界』明治三十八年四月発行第八巻第五号 九五―九六頁)

と論じた。まさにアメリカが歓迎する輿論の代表と言うべく、これを見ては、我が政府がどんなに狭量でもこの快挙を禁ずることはできなかったのだ。

 鹿島立ちの前月、三十八年三月には、渡米チームのユニフォームが新調された。薄い小豆色の地に校名を海老茶色のローマ字で浮き出させたものである。この月一杯学苑チームをコーチしたメリーフィールドの母校シカゴ大学の校色に倣ったのであり、早稲田と海老茶色との結びつきはここに開始したのであった。

 尤も、学苑が海老茶をスクール・カラーとして正式に決定したことがあるとすれば、かなり後年になってからに違いなく、三十年式典準備委員長市島謙吉が、当該式典を機として校色を制定すべしとの議を受けて、自己が提案し、高田・坪内の賛成を得たとして、四十五年七月一日の日記に記しているところでは、左の如く海老茶は未だ校色と認められていないのである。

校色は習慣上赤となり居る。これは学校にて定めたるにはあらず。運動会の折政治科が他の諸科と区別するため赤色を用ひ始めたるが、今にては慶応が紫色を用ふるに対し、運動界にて早稲田は赤色を一般に認め居れば、これを用ゆるこそ穏当ならん。唯だ赤色にも種々の類あり。普通の赤は俗に失し面白からず。可成朱色を採りたし。しかし余りに六かしき色は実際の場〔合〕染出しに困難を生ずべきに付、定色を朱とし、すべての赤色を可とすることになし置く方便利ならん。外国の大学にては正副の色あれども、我邦には副色を要せず。 (『雙魚堂日載』巻十一)

五 連戦連敗して屈せず

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 この渡米に選ばれた選手は次の十二名である。

 投手が只一人なのが今から見ると奇異だが、実はまだ投手交代ということも知らぬほど幼稚で、連日続く試合も苦にせず、河野一人で投げ通したのだから、アメリヵではそれだけでも奇蹟のように驚き、鉄腕投手の名が高く、日本人の辛抱強さを異常のこととしたのである。

 明治三十八年四月四日横浜よりアメリカ船コレア号に乗船、ホノルル経由、同二十日サンフランシスコ着、翌日スタンフォード大学のあるパロアルトに向う。汽車で一時間、メーフィールドの二軒の家に分宿し、二週間滞在した。暫く休養と練習に費して四月二十九日第一試合を行う。これは日・米大学、最初の国際試合として重大な意義を持つが、その思い出を安部はこう語っている。

何分国際的野球競技は歴史あつて初めての事だから随分評判が高かつた。桑港よりは臨時汽車を発して千人に近き日本人が来る。近辺の西洋人も我後れじと来たのであるから見物人の総数は二千人にも上つたらふ。学生が組織せる楽隊は愉快なる楽を奏して景気を付け、天候も幸にして好く、暑気も甚しくはなかつたから、試合には至極適当であつた。……試合の始に於ては我先づ一点を得たのであるから、日本人の歓喜は非常であつたが、半以後に於て我の失策相続で出て、終に九点に対する一点といふ憐むべき失敗を招いた。試合後我選手とスタンフォードの選手は一同に採影し、ジョルダン校長も其の中に加はつた。余は第一回に於ける此の如きの失敗は、全く我選手が永き航海の疲労を医するの暇なかりしことと、米国に於ける試合に慣れざりしに由るものと信じたから、これを電報にて日本へ通知するに忍びないと思ふた。若し正当に判断を下せば、此日の勝負は四点に対する一点位のものであつたらふ。

安部磯雄「渡米日記」『早稲田学報』明治三十八年八月発行第一二一号 四四頁)

 翌三十日は日曜日。サンフランシスコの早稲田校友会が発起となって、八十余人の紳士団が帝国ホテルという日本旅館で歓迎会を開いてくれた。この席上である。銀盃二つを作って贈るから、一つは渡米記念として永久に早稲田大学にとどめ、一つは日本野球界のために、その年の優勝校の持ちまわりにしてもらいたいという申し出があった。これが日本における優勝盃の初めである。

 この遠征が、日本の野球の幼稚未熟と外国で連戦の疲労とで、成績は上がらず大敗に終ったというのは、世間常識となっている。しかし、どこのチームと戦って勝敗はどうであったかは知られていないから、部長として参加した安部磯雄の「渡米日記」によって略叙しておこう。

 五月一日のメーデー、雨のため予定されていた第二回目の試合は中止になった。翌二日、スタンフォード大学との第二戦は一対三で負け。この晩、在留邦人第一の成功者でポテト王として聞えた牛島謹爾に晩餐の招待を受け、食後コロンビア劇場でシェイクスピア劇の上演を見る。三日、ゴート島の海軍兵学校と戦い、八対十一で負けたが、これは審判の不公正によることが多かった。四日、スタンフォード大学の運動場で、エンシナ倶楽部と戦って五対三で勝つ。渡米後四戦目の勝利である。五日、スタンフォード大学の教授野球団と対戦して、七対二で難なく勝つ。

 それから休養の後、五月九日、サンフランシスコのレクレーション・パークでセント・メリース大学と跡戦い、零対十六の大敗。ここはカリフォルニアに覇を称する名だたる強チームだから、順当であろう。

 十三日、宿泊地を引き上げ、プリシデオに駐在する陸軍野球団と戦い、五対七で負けはしたものの技量伯仲する好試合であった。十四日、パレオの海軍ドック団と対戦。三対十四で敗けたといっても、例の審判の不公正で、早大遠征軍は、アメリカ海軍チームが揃いも揃ってフェア・プレイの精神のないのに不快を抱く。十五日、カリフォルニア大学と戦い、五月半ばの猛暑に当てられ、零対五で敢えなく負け。

 十六日、ロサンゼルスに向う。今日のニューヨーク、シカゴに次ぐ全米第三の大羅府でなく、まだ人口三十万の田舎都会。十七日、ハイ・スクールに五対三で勝ち、応援に来た日本人が躍り上がって喜ぶ。ここは日本人が一番多く住んでおり、平生圧迫せられているので鬱憤を晴らす思いをしたのだ。十八日、オクシデンタル大学と戦い五対六で惜敗。翌日は休養して初めて職業野球を見る。コースト・リーグであったろうか。

 二十日、ショルアン・インディアンの黒人学校チームと戦い十二対七で快勝。有色人同志の野球だというのが興味を惹き、大変な見物人であった。翌二十一日、海水浴地サンタ・モニカの鉄道従業員チームと戦い四対五で負けた。ここには職業野球から入ってきた選手もいるにしては、早稲田は善戦した。

 二十二日、セント・ヴィンセント大学と対戦、四対六で敗北。二十三日、クレアモントのポモナ大学に四対十二で大敗。同地に一泊後、翌二十四日に南カリフォルニア大学と戦い、十三対六で、久し振りに一勝。二十六日、ベイカーズフィールドに着、翌日その地のハイ・スクールに五対六で惜敗。――この日から日本海海戦は初弾の応酬が始まっていたのだ。

 二十八日、新聞に日本海海戦の報道現る。我が優勢という記事に胸をなでおろす。その午後、再び戦い二対五で再敗。ここはハイ・スクールといっても名だたる強豪で、歯が立たなかった。

 二十九日、フレスノに向う。新聞は日本海の決定的大勝を報じ、駅に着いてみると構内一杯に日本人がつめかけて歓迎してくれた。葡萄畑に五千人の日本人が働いていたのである。ここにセミ・プロのチームがあり、是非一度は対戦してみたいと希望していたら、快く応じてくれて、三十日、三対十で負けた。三点でも取れたのは望外だと思っていたところ、翌日の再戦には、打つワ、打つワ、捕るワ、捕るワ。情け容赦もなく攻めかかり、零対十三で完敗。当然である。安部部長は帰国談でこう語っている。「日本海大海戦の捷報が一行の耳に達したるは、桑港とロサンゼルスの中間にあるフレスノといふ所にて、恰かも同地にて半商売的選手と仕合中なりしこととて、一行の意気が平常に倍したるはいふまでもなく、見物人も皆な総立ちとなりて、どよめく声鳴りも止まず、極めて面白き仕合を為すことを得たりし。総じて仕合の際には、此時のみに限らず、至る所に戦勝の余栄を被らざるなく、我れ敵の第一塁、第二塁を破ぶりて突入する毎に『浦塩に進め』『ハルビンに突貫せよ』などの喚声を聞かざることなく、ポートランドに於ては審判官の審判に疑ふべきものありし時の如きは、口々に『露探、露探』と罵るのもありたり」(『報知新聞』明治三十八年七月一日号)。露探というのは、当時ロシアのスパイを表現する語である。

 六月一日、いささか故郷に向う思いでまたサンフランシスコに帰ってくると、牛島ポテト王から自転車二台の寄贈があり、選手達はしきりに稽古した。安部部長は、できれば東部へも転戦したいと思って、エール、ハーヴァード、コロンビア、プリンストン、コーネルの諸大学に電報で照会したが、夏休みに入った加減であろう、返事が来ない。

 やむなく諦めて、太平洋海岸の北部オレゴン州に向う。ここには、ソー・ミル(木挽小舎)に働いている日本人が多い。六月六日、オレゴン大学と戦い、零対三で負けたといっても、明らかに審判の不公正に、早稲田選手は不満を顔に、動作に現すのを、安部部長は深くたしなめた。連日の旅と試合に選手の疲労は極度に達した。

 七日朝、ポートランドに着。博覧会があるので、寄って見物し、モルトノマー倶楽部から挑戦を受けて出かけると、中にスタンフォード大学の選手が二人加わっており、「やあ、また会ったね」と迎えてくれた。懐しくもあったが、今度こそは一矢報いてやろうという敵愾心を燃え立たせ、疲労も忘れて見違えるように元気になり、頗る善戦大いに努めたが、二対三で惜敗。夜は博覧会を見物して、イルミネーションの美しさに驚き、翌日は運動具店でいろいろと野球道具を買った。

 翌九日シアトル着。さすがに、ここには早稲田の校友が十数名いて、ホテルに案内してくれたので、室に入るや、いきなりベッドの上に枯木さながら倒れて、正味四時間、死んだように眠った。午後三時半からワシントン大学と戦って二対九で大敗。翌十日再戦して零対四で再敗。この大学は相当に実力があるので兜を脱ぐ思いだった。この夜久永領事は一行を官邸に招いて園遊会。十一日、レニヤ俱楽部と対戦、二対一で久し振りに勝つ。この夜、日本人俱楽部が晩餐会を催してくれ、集まる者四百余名。

 十二日、タコマに着き、午後三時半からホイットウォース大学と対戦して、二対零で勝つ。片田舎の無名大学相手だが、遠征の打ち留めを勝利で飾ることができたというので大喜び。夜十時シアトルに帰り、すぐ船に乗り込む。今度は日本船神奈川丸である。二十人ほどの日本人が見送りに来て、名残りを惜しんで、十二時過ぎまで話し込んでいった。その代り、一旦ベッドに入ると、鼻をつままれても目がさめないほどの深眠りで、翌十三日未明五時の解纜を誰も知らなかった。

 思えば異国に戦うこと三ヵ月、二十六戦のうち七勝十九敗。誰か言う、見苦しい敗戦と。控え投手を連れることの必要も知らないほど幼稚なチームが、たとえ相手はハイ・スクールにせよ、無名大学にせよ、七勝できたのは、寧ろ予想外の成績とする声もあった。海上の十六日間は、一度台風に遭っただけで、寧ろ平穏な航海と言うべきであろう。

六 朝野の日米外交

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 六月二十九日の午後四時半横浜着。シアトルを出て以来、濃霧のため、船の進行が予定の通りに運ばず、横浜入港の時間が確定せぬため、出迎え人はなかった。それでも、柔道家の佐竹信四郎と野球部員弓館芳夫(小鰐)の二人が、待っていてくれた。この弓館は大学部文学科の第一回生で、野球は飯より好きなくせに、からっ下手で、選手にはなれなかった。毎日新聞の社員となり、終戦後に亡くなったが、早慶戦は第一回から一度も見逃したことのないという記録の保持者で有名だった。

 当時は無電が発明せられて間のない頃で、まだ船に設備がなく、従って、帰航中半月の事情は悉皆分らなかったが、その間に講和の相談が進み、小村寿太郎を全権として、随員の発表のあった中に、筆頭に外務省政務局長の山座円次郎の名を見て、安部は今昔の感に堪えなかった。それは、まだ郷里の福岡にいた頃、できたての小学校で同級の安部と山座は首席を争って両秀才と言われた仲、後に歩む道は違っても、互いに声息は通じ合っていたからだ。安部が教育者として世間に聞えるようになるのに応じ、山座は外交界に名をなし、明敏果断、夙に未来の外務大臣を以て目されていた。日露戦争の講和談判は、勿論小村が立役者だが、裏で介添をして働いたのは山座で、それは半ば山座外交だったとさえ言われる。思えば、安部が先ず早大野球団を率いて渡米して、民間外交の素地を作り、その上で山座が乗り出して、平和外交を締結したので、日露戦争終結期の対米外交は、かつての福岡の二少年が、官と野において、それぞれの役割を務めたのだ。

 明治三十八年八月の『中学世界』(第八巻第一〇号)には、安部磯雄の「早稲田大学の野球選手」と、橋戸信の「米国の学生と運動競技」の二編が、アメリヵ遠征みやげ記事として載り、青年読者の異常な歓迎を受けた。その中で安部は、渡米中の早稲田選手の行動がいかにも立派で紳士的であったと言って、実例をいろいろ挙げている。例えば、渡米前大隈から「ハイカラになって来いよ」と言われ、在米中は髪も伸ばしていたが、郷に還っては郷に従えで、横浜に着く前、何とも言わないのに、みんな元の丸刈りの坊主頭に戻ったのであった。

 しかし学生であるのに向学心に乏しく、渡米を機会に、あちらの新聞を読むなり、努めて会話するなりして、多少とも上達したのは二、三人に過ぎぬ。この点は大いに期待がはずれた。少くともキャプテンの橋戸は、青山学院出であり、また文学科の学生なので、この二、三人の中の一人であるのは間違いなく、彼は卒業の前年、向うで得てきた書物によって『最近野球術』を著作しており、卒業後渡米し、数年して帰ると、新聞紙上で初めてスポーツという言葉を用いて、従来運動競技と称えられていたのに代る定称とし、また「鉄棍一振、球は碧落を逢うて」式の、太平記張りの野球記事を、投球のコンビネーションから、打撃率何割、守備率何割という数字で表す科学的様式に一変した。

 ただし、安部が出発前維持員会で披露した、十万円のみやげを持ち帰って早稲田田圃を湖水としてボートの練習場にする話は一炊の夢で、スポールディングの『野球案内』から割り出した誤算であった。一試合四、五万人入るというのは職業野球の話で、学生野球はとんと人気なく、最低五千人、平均一万と予想したのに、それだけの入場者は一度も集められなかった。そのため学校から前借りした五千五百円は久しく野球部の借金となって残った。大学では日米両国間の人気を沸騰させたので、宣伝費とすれば安いものだと言って、返済を求めなかったものの、几帳面な安部はこれを終生の苦の種子とし、六大学野球が入場料を徴するようになって、つまり二十余年を経て皆済した。

七 中学野球と社会人野球

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 庭球が高等師範学校から拡まって官的スポーツとして庇護奨励を受けた傾があるのに反し、野球は全く学生の手によって盛り上げられたので、文部省からとかく継子扱いされ、冷遇され、圧迫せられた。後の明治四十四年の秋のことになるが、この風潮に迎合したか、『東京朝日新聞』が大袈裟に野球反対のキャンペーンを起した。『時事新報』『報知新聞』『万朝報』の三紙が野球に熱心なのに対する反抗意識からであったろう。連日、野球の社会的・教育的・健康的弊害を説き、朝野名士の談話を掲げ、中には早慶の有名野球選手まで駆り出して体験談として載せた。一部の教育者は双手をあげて歓迎したものの、朝日の大見込み違いには、漸く増加してきた野球人口と学生大衆から猛反撃に会い、読売新聞社主催により九月十六日有志と選手は神田青年会館に野球問題大演説会を開いて、中にも河野安通志が「吾腕を見よ」と両腕を扼して壇上に獅子吼したのが、一代の名投手の実感の声だけに、聴衆を感動せしめた。反撃だけなら、大朝日だ、傲然として応待したろうが、なにぶん読者が足許から日に日に潮の引くように目に見えて激減するのには、社会部も大いに狼狽し、野球撲滅の記事のインキもまだ乾かぬのに、態度を豹変し、「中等学校野球大会」の企画をめぐらした。本学文学科に在学したことのある美土路昌一記者が、野球愛好家だったので、その提案と言われる。

 世の反感の消えるまでには若干の時を要し、全国中等学校優勝野球大会の第一回は大正四年に行われて、催しとして空前の成功を収めた。しかし朝日にはこれを報ずる適当な記者がおらず、早稲田野球部旧部員の弓館小鰐その他を擁する『毎日新聞』が巧妙に報道するので、鳶に油揚をさらわれた形となって空しく競争紙の数を増やしただけとなった。その対応策に迎えられたのが、アメリヵ帰朝早々の橋戸信で、彼こそ中学野球(今日の高校野球)を全国的に盛り上げる基を作った大殊勲者であり、その後は同じく本学出の飛田忠順(穂洲、大二専法)が承けて、一層盛んに今日の線まで引き上げた。飛田は早稲田の初代野球監督として、特に彼の生地の水戸学を基礎にした精神的野球を、中学野球においても鼓吹し、今日全国の若き血を躍らせる国家的行事としたのである。

 橋戸は東京日日に移って、都市対抗野球を考え、これを提案しても、社幹部がなかなか応じないのを、熱心に説得して、漸く承諾を得た。昭和二年東京日日新聞社と大阪毎日新聞社の共催でいよいよ開催となったが、学生と違い、社会人の野球で、見物人があるかどうかが分らず、木戸開きの前夜は眠りをなさぬほど心配した。しかし、いよいよ蓋をあけて見ると、早くから観衆がつめかけ、忽ちにして球場は一杯になった。入場料は五十銭、橋戸には観客席を埋め尽した数万の顔また顔が、一つ一つ五十銭銀貨のように光って見えたというのは有名な話である。これに選抜されて出てくる各大都市の選手は、みんなかつての顔なじみの六大学出の有名選手から成っているので、それを見ようとして雲集するのであった。今日は、これが社会人野球に変貌している。橋戸のこの功績を讃え、昭和十一年の第十回大会より、最優秀選手に「橋戸賞」が贈られている。なお、同じく社会人野球のために大きな足跡を残した久慈次郎(大一一大商)を記念した「久慈賞」(敢闘賞)が、二十二年の第十八回大会から設けられていることも付記しておこう。

 職業野球もまた安部磯雄が夙に提唱したところで、選手の争奪など学生野球にも種々の弊害の出始めたのを、安部は、職業野球団さえできればそれは消滅するから、意に介するに及ばぬとした。読売新聞社で正力松太郎社長が昭和九年、後の東京巨人軍を設くる時、謀主として相談し、且つその衝に当らしめた総監督市岡忠男(大九大商)も、その最初の監督浅沼誉夫(大六大商)も、中島治康、三原修などの主軸選手も、みな早稲田の野球部OBである。早稲田野球部員は、卒業後、その職業選択に恵まれず、野球関係に乏しい生活の口を求めた者が多いのが、自然に職業野球に行く者の多い結果を来たした。昭和三十四年野球殿堂ができて、その功労者が祀られるに至るや、安部磯雄・橋戸頑鉄・押川清・久慈次郎、次年度には飛田穂洲・河野安通志などが、雁行して選ばれ、早稲田出身者が圧倒的に多い。

 要するに、国際野球競技を盛んにしてみたいと安部磯雄が抱いた多年の夢は、第一回の早大選手渡米によって実現するとともに、日本の幼稚な大学野球技術に刷新革命を及ぼしたばかりでなく、今日の高校野球、社会人野球、職業野球を興す源流となり、つまり後の文化生活に大変化を起した業績はまことに偉大である。